青に透けた肉塊

君は変人に憧れている常識人だった。

未完/擱筆 小説「翌る日は」

翌る日は(未完)



自分の寝息のはずみが、耳の奥底からゆっくりと耳朶へ近づいてくるように聞こえ、レースカーテンの網目から漏れる光のような、細かな眩しさをまぶたの裏に感じて、聡子は朝に気づき、目を開けた。

寝床である和室の障子は、朝の日差しをふっくらと帯びて、ものしずかに室内を明るくしている。円みのある影が布団のへりから畳の上へ、聡子は上体を柔軟に反らせながら、のびやかに伸ばした。ちゃぶ台の上に置かれた眼鏡をかけ、両膝をたたみ、手のひらを布団に力いっぱい押し付けて、勢いよく立ち上がる。今日も、私は健康、と、よろめくことなく立てた自信を動力にして、昨夜置いておいたコップの水を飲み干し、布団をおしいれの中に、あふれてこないように押し込んでから、老朽と光陰の流れに侵食されている、年老いたにおいのする廊下を、寝巻きの裾を引きずって洗面所へと歩いた。

口をすすぎ、入れ歯をはめて小用を済ませる。隣室はダイニング・キッチンのカーテンを開けて、冷蔵庫から食パンを出し、一枚をオーブントースターへ入れる。昨夜の冷たさがまだ残る水道で、軽く手を洗い、野菜室からラップした半個の玉ねぎと、人参を出して、細切りにする。鍋に水を張り、火をかけ、痩せた二の腕を震わせながら持ち上げた、まな板の上のそれらを落とす。火力は強いままだが、そのままふたをして、きれいに焼けたトーストにたっぷりバターを塗る。鍋が沸騰し始めたら火を止めて、顆粒コンソメと塩を入れ、かき混ぜながら深皿によそう。

聡子は時々、この朝食メニューをいつから続けているのか、食べながら考えることがあるが、はっきりと思い出せたためしは一度もない。しかしそんなことも、毎日かならず余らせる少量のスープも気にせずに、鍋の中身をながしに棄てて、お盆を持って居間へ座り、テレビをつけて、黙々と食べ始めた。

テレビは、動物の特集をやっている。聡子は画面を見つめて肘をつき、パンの耳をかじりながら、そういえば祐奈は犬を飼っていたけれど、あの犬は何歳になったのかしら、とそぞろに長女を思い出してみたり、また近所の子どもが家の前を走っていく、生命力に満ちたはしゃぎ声にふと首を向けてみたりして、悠長に一日の始まりを迎えた。あまり考え事をしないのが聡子の元来の性格だが、特に朝は、その日の予定すら思い出さず、無為に時間を過ごすことを心がけていた。

バターの届いていないミミの部分をスープに浸して完食し、パンくずが浮いた油の揺れるコンソメスープを、野菜はろくに咀嚼もせず飲み込む。食べ終わってからも、しばらくテレビを見続けながら、前歯に挟まったのを、キリンが草を食む姿態そっくりに舌先と下あごを使って取り終えると、ようやく立ち上がって尻を払った。

食器を片付け、電子レンジでパックのごはんを温めている間、寝室に戻り白いブラウスとベージュのパンツに着替える。毎週、二人の娘が聡子の様子を見に遊びに来る日はこの装いにすると決めていて、昨日の夜には部屋の長押に衣紋掛けをつっかけていた。髪をコームで整えて、白粉と紅を軽くさすと丁度チーンとレンジがなった。

仏飯器を食器棚から取り出してご飯を小ぶりに盛り、あまったものはラップにくるみ冷凍庫に入れる。それから湯呑みにポットの白湯を注ぐ。居間には黒檀製の台付き仏壇があり、聡子は畳の上に膝を進めて、丸まった短い指先で器用に鍵をはずし、大戸と障子を開いて仏飯と湯呑みを置いた。

マッチを擦り、指先が赤々として、爪が熱を帯びる前に線香を一本抜き、手早く火を移して吹き消す。すでに満杯になっている香炉にそっとさし、かねを撥で軽く打ち鳴らした。

「…」

沈黙。

自分は今何を思っていたのか、以前に何をしていたのかすら意識になく、聡子はまばたきをする間に仏壇の前から立ち上がっていた。線香の煙は、立ち去った聡子の後ろを少し追い、すぐに翻り、真っ直ぐに薫りて伸びた。

娘の祐奈と紘奈がくるまで、三時間あまり。聡子は、いつも通りに過ごす。

一階全室の隅々まで掃除機をかけて、押入れから座布団を出し、三枚を数えて居間のテーブル周りに敷く。娘のどちらかが座る一枚の配置を、テレビ側にするか廊下側にするか迷い、決めたら余った座布団をまた押入れに仕舞って、ふすまを閉め忘れたままキッチンに向かう。

米袋から米を二合分計り、ボウルに入れて、水道の水ををたっぷりに満たす。揉むように軽く洗い、水を減らし、指先でするどく研ぎ、また水を入れる。二度めの洗米の最中、聡子は流れっぱなしになっていた水道の水に、突然ハッと顔を上げて、慌ててレバーをひねった。そして、つと、首を居間の方へ軽く向け、またボウルに視線を戻し、静かにまぶたを伏せて、とぎ汁をシンクに流した。朝目覚めたばかりの気だるさは日が高くなるに連れて薄れてゆき、安定した動力が身体に馴染んできた時分で、聡子の表情は先ほどと同じか、より活き活きとして汗ばみ、一瞬の間の気色は褪せた。

炊飯のスイッチを押し、きゅうりとかぶの浅漬けを作り終えた頃、約束の時間通りに長女の祐奈が来た。

「お母さーん、いろいろ食材買ってきたよ」

丸々と太った体に汗をかき、荒々しく呼吸を弾ませながら靴を脱いで、迎えた聡子を両手の荷物で押すようにキッチンへ入る。一本にまとめた長い髪のほつれが貼りついた顔は、柔和に笑って母を見つめる。

聡子は、さっそく冷蔵庫を忙しくかき回す娘の後ろ姿を見つめながら、困ったように笑って言う。

「ありがとうね、でもいつももうちょっと少なくていいのよ。ゆうちゃんたちが来るのは週に一回だけだし」

「あんまりお惣菜ばかり食べてたらダメよ。朝ごはんは作ってるだろうけど、ちゃんと栄養をとらないと。お母さんはまだまだ体力があるんだから」

20分ほど経ってから、次女の紘奈が来た。聡子が迎えると、気だるげな態度でひらひらと手を上げて挨拶し、のんびりサンダルを脱いで上がった。脱色した派手な髪を肩にながし、タンクトップと短パンから伸びる手足は、祐奈と対照的にひどく痩せている。聡子のふっくらした目元は祐奈が、高い鼻筋は紘奈がよく似ていた。しかし体型や格好は、自分の遺伝ではないと、二人が揃って立つと聡子はいつも思うのだった。

聡子が居間に入ると、二人の他愛のない口論が始まった。情熱的な長女とものぐさな次女は、元来の性格が合っていないと承知しているので、子供の頃からのそれを観戦者のような心情で聞いているのが常だった。

「ひろ、どうしていつも遅れるの?」

「支度に時間がかかったんだよ…。てゆーか、遅れたって別に他人じゃないんだしいいじゃん」

「お母さんのうちに来る日は、一緒にごはんを作るって決めたでしょう。私はひろの役割も考えてメニューを決めてるんだから」

「私は姉ちゃんちの息子みたいに子供じゃないんだし役割なんてテキトーでいいじゃないの」

聡子はふと今朝テレビで見た特集を思い出して、座ったまま怒鳴った。

「そういえば、ゆうちゃん」

「なあにー、お母さん?」

「朝ねえ動物の番組見てて思い出したんだけど、ゆうちゃんちのワンちゃんっていくつになったの?」

「うちのチワワはもう16よぉ」

「はっ?姉ちゃんちのアレ16?!犬ってそんなに生きるの?」

「いやあ、うちはすごい長寿なのよね。息子が二歳の頃に飼い始めてからだけど、まーだまだ元気よ」

聡子は黙して、座布団の上で腰を伸ばし、自分は犬が何歳くらいまで生きるのか今まで知らないでいたという事実を、交響曲でも聴いているような心地で真摯に受け止めた。二人の会話はまだ続いていたが、事実を知った自分の心境が恥へとたどるのかを考え、それを否定し、新しい知識を得た素直な認知に落ち着いた。聡子は歳を取ってから、初めて知った物事を受け入れるのがなかなか難儀になった。しかし娘たちと過ごしていると、それはしばしば起こることであった。

そういう時、聡子は自分のつかの間の体裁をさっぱりと忘れてしまうように努める。折良く、二人の会話は別の話題に移った。もう、口げんかをしていた態度はなく、呼吸の合った調子だった。

(擱筆)



勉強ばかりしていたらずいぶん書き進めることを忘れていた。どうもあんまり長く手をつけないと自分の作品なのに他人の姿を見ているような気持ちになって仕方ない。

このブログも同じで、たまに開く時は行ってなかった学校の同窓会に顔を出すような、どこか冷めた心情になる。前回のブログは二カ月以上前で、その前が四カ月前だからまあそうもなる。

けれど志しだけは一貫して持続しているのも事実だ。競合する者こそいないが自分の理想を見つめ、時機を待っている。


翌る日はは再度練り直して一から完成まで作りたい。





独り言。(ペンネーム変えました)

「恥を認める」。これをできる人は、なかなかいない。1000人中1人くらいではないかと私は予想している。私が今まで出会ってきた人、せいぜい80人くらいで、そのうちそれを、自然に、性格の根底からできていた人は、たった一人であった。つまり、80人中1人の確率で有ることは、最低限まちがいではない。いや、私は算数が特に苦手だからどうだろう、あ、いやはや、これはまた、即座に言い訳を、あ、いやいや。

恥を認める。私は群を抜いて、これが全くできない。生きていること自体がもう恥のような毎日であるのに、他人が非難しても、知り合いがたしなめても、身近な優しい人が、大丈夫?って一言、ヒントを出しても、鋭利に研がれたプライドの剣で私はそれを刺し殺す。それどころか、メタメタにして、跡形もなくぶっ壊す。そして何事もなかったように元通りに腰を落ち着ける。

なかなか、できないものである。柔能く剛を制す、これに尽きるというのは、真理である。この柔らかという字は、恥を認めることにおいて、ふざけて茶化すという意味ではなく、素直に受けとめて、相手に謝る、非を事実だと理解して、なにも恥を恥と思えというわけでなく、また恥する対象にむやみに謝ったりするというわけでもなく、次の自分の踏み台にする意志を表明する。恥辱や情けなさを盾にしないで、自分の身に受け止める、その、柔らかさだと思う。

指をさされたら、うん、ごめん、あの時は。(即座に結論だけを伝える。)僕もまだ、若かった。(認めるだけで言い訳しない。そしてむやみに謝らない。心底から申し訳ないと思う相手にだけ謝る。)あの時のことを、僕は何度も考えて、もう二度としないために、そしてもっとより良く生きるために、こういう目標を持って今を生きているんだ。(転換をする。)眼差しも背筋も、真剣である。声のトーンは、低めである。これだけで、多くの人は許すだろう。語弊を招くような意味合いではなく、これだけ、これだけできることが、恥を認めるという姿勢なのだ。もちろん体裁だけではなく、本気でそう考えていなけりゃただの嘘になるけど、行為はたったこれだけである。

なぜ我々は、こんな簡単なことができないのか。できないばかりか、プライドの防御にハリボテを作り、余計に非難を浴びてしまうのが常である。

美徳なのか、恥という事実が一切ない状況が。他人事ではないけれど、それは無茶だ。恥のない人生なんて、なんの学びもない。私は恥にだけは人一倍詳しいから、断言できるけれども、あいにく学びにするには認めなければならないので、白ける。


何か恥のことを全く見当違いな心で見ていないか。ほんとうは、自分の答えはわかっているけれど、今の私にはまだ、この遠吠えが精一杯の誠意である。

小説「盆地」

盆地


調えられた口髭をふっくらと繁らせた老爺のボーイが、国浩のテーブルへ恭しく料理を運んできた。化粧板の円形卓に慎重な挙措で皿を揃えて、前歯を全く見せずに必要な説明だけを玲瓏な声で申し上げると、にこりともせず厳粛に厨房へ引き下がっていった。国浩と島子は、ステレンスのガタガタうるさいワゴンとそれを押すボーイの後ろ姿を見届けると、顔を見合わせて微笑した。

紙製ナプキンを胸にかけ、並べられた料理の色彩に両の目を湿らせてから、国浩はフォークとナイフを手前に構えた。

「さ、食べましょう」

島子はナプキンを膝に敷いて、髪が落ちてこない程度に、淑やかに上体を傾けると、料理に向かって手のひらを合わせた。

「いただきます」

国浩は島子の所作を素直に心良く思った。二人はまずフレンチ風の前菜から、ゆっくりと食しながら会話をした。広いホールには二人のほかに客はなく、厨房から食器の触れ合う音が聞こえてくるくらい静かだった。ゆえに二人の声はよく通り、それは快適だった。

「しかし、昨晩のあなたのお父さんには本当に驚かされました」咀嚼を飲み込んでから、国浩は空を一瞥してククッと笑いを噛んだ。その昨晩が、ありありと思い出されるのである。

「何遍言われても私にはなにが面白かったのかわかりません」島子はナイフを扱いながら、たしなめるように冷たい口調でそう言ったが、つられてすぐに笑顔をこぼした。

「僕には不思議としか思えません」国浩は言葉の半分を自分に向けるように呟いた。

「素性の知れないただの逗留客に、あなたを預けてしまうんだから…。もっとも僕は、なにも悪企みはありませんけど、あなたのお父さんと会話したのは、一泊目のお帳場と、大浴場の湯加減がぬるかったときと、晩酌をしていただいた夜だけですよ。わからないなあ…。」

「あら、なにも訝しむことなんてありませんわ。だいいち、お父さんには私がお願いしたんじゃないですか。国浩さんが、明日はP山に登るっていうから私もついていきたい、って」

「そりゃー、あなたがついてくると言ったのには違いありませんが、わざわざ僕の部屋に来て、大笑いしながら肩を抱き締めてきたから何かと思ったら、丁重に宜しく頼まれてしまって…。かえって僕が不安になりした」

国浩は苦笑を隠さない。スープを飲んで、饒舌で渇いた口をうるおす。

テーブルの上はアラカルトに、魚のソテーとグリーンポタージュ、野菜と肉の前菜が新鮮な色味で、 二人の談笑を華やがせる。このレストランは、国浩が前日に町の地図で見つけたところで、山道途中に隠れる西洋風料理の老舗店とタウンガイドに書いてあった。住宅地を抜けた急勾配の坂の先の、小高い山肌の上、なるほど古びた建物は町を見渡せる崖にあって、国浩と島子は坂道を歩いて汗だくになった顔をぬぐいながら、隠れ家のようだ、秘密基地のようだとはしゃいだ。

厨房で話し声が聞こえる、二人のコックと、老爺のボーイの三人が店をやっている様子だ。ボーイは厨房のドア付近で銀製のトレーをかかえて目を閉じている。その背筋はそり返り、一糸乱れぬ繁った口髭を強調させ、のりのきいたベストはシワひとつなく、一介の老人の居眠りには印象として程遠い。国浩は時おり横目で、その甲冑人形のようなボーイの姿を見つめては、自分に足らん何かを刹那に感じた。

島子は魚のうろこも上手に切ってきれいに食べる。そつがない気品に満ちた手つきは自然体で嫌味がなく、ただ美味しそうに食事をしている。国浩はあまり島子を観るのもよろしくないかと思うが、そこに不粋な気持ちは何もないので、目を逸らしもしなかった。

「…でも、私にはやっぱり解りませんよ」島子はソテーの皿を完食した。

「今までの人生で、危険な目に遭わなかったからかしら。自分が信じられると一度でも思えた方なら、私、話したことない人でもお誘いがあればついて行ってしまうわ」

そう言う島子の表情は、身の危険を改めて案じている不安というよりも、国浩の懸念が妥当なものかじっくり考察しようという悠長な色が湛えられていた。国浩は最後のポタージュをよく味わって、ハンケチで口元を軽く拭いた。

「僕は、自分の育った環境をもとに考えて、そう感じただけです。島子さんは、とても安心しながら過ごされてきたのですね、素晴らしいことです」

自分の言葉につられるように、弧を描いたガラス張りの全面窓から、一週間前から滞在しているこの田舎町の景色を、しみじみと眺めた。

「事実、この町は優しい。僕はここへ来てから、いろんな人にたくさん親切にしてもらいました。皆さんが優しい心を持っているから、安心して暮らせるのでしょう。あなたの口から危険に遭ったことがないと聞くと、お父さんのあの笑顔も納得できます」

島子も町を眺めた。線路をたどって駅のすぐそば、家である旅館の煙突からもうもうと湯煙が立っている。近所なら知らない屋根はない、いつも通りの地元を、今さら優しいのかどうか判断をつけることも難しいが、国浩が語る意図の裏に隠している、自分の未知なる治安も、どこか遠くにあるらしいのは理解できた。

ソテーは粗挽き野菜のソースまで、スープは最後のひと匙まで食べ尽くし、デザートにシャーベットをたいらげてから、二人は満足して店を出た。ボーイは店の外までお送りをして、二人が見えなくなるまで深く辞儀をしていた。その間、ひとことも何も言わなかった。国浩は歩きながら少し振り返って、自分とこの人の人生は、比べ物にならないくらい全く違うものなのだろう、というようなことを考えた。

レストランを出ると、登ってきた道路がそのまま山頂へと続いていく一本道が、まっすぐに延びている。この道を、斜面に沿って四曲がりした先に見晴らしのスポットがあって、昨日、三時の茶を淹れに部屋へ上がった島子は、もう暫く滞在している歳の近い青年にすっかり馴れ馴れしく、中途に開いた調べ物をのぞき込むとこの見晴らしのスポットだった。P山はなかなか険しいらしいですがと言う国浩をよそに、父のいる帳場へ駆けていった次第だった。

春の新しくてやわらかい青空に、ちぎった綿のような雲が点々を打つ。陽気はすこし暑すぎるくらいだが、冷たい風が縦横に吹き荒れていて、結果的に良い気候であった。二人はどちらが先を行くでもなくたて列になって、目的地へ向けて歩きはじめた。

傾斜は低地からなかなか険しかった。しかし国浩はふだんトレーニングジムに通っているため、無駄に呼吸を荒げたりすぐに汗を垂らしたりすることはなかった。滞在中のほとんど毎日を机に向かって過ごしていたため、むしろ心地よい運動だと張りきった。だがしかし島子さんはすぐにへたるだろうとも思った。なにより十九の齢といえ体格はまだ少女のように細い。腕も足も脂肪しかついていないから、内臓もしっかりしてはないはずだと心配をしたが、その予想は大きく外れた。

島子は、バッタが草地から次の草地へ飛んでいくように、ぐんぐん歩いた。そしてあっという間に、国浩から三歩も距離を開けた。足腰の弾力と柔軟な跳躍は、さながらゴムボールのたわみのようであった。国浩は、自分の硬い筋肉を疑った。

「ふだんから歩かれているのですか」

「いえ、とくべつ運動はしておりませんが。」島子は振り向いて、ちょっと得意げな表情で笑った。国浩をお兄さんのように慕っているこの宿屋の娘は、お客様を相手ということも忘れて、無邪気な勝ち気をあらわにした。国浩はやはり自分も島子を妹のように思っているので、それをおおいに寛容して片眉を上げてみせた。

道は鬱蒼とした山林の中へ入っていく。重なり合う青葉に日の光がとけて、アスファルトも石壁も服やからだも、澄んだ緑色に透ける。林には冬に積もった雪が、どっしりと平らになって敷き詰められていて、木陰は一変して肌寒くなった。しかし歩き続ける二人の体温にはちょうど良い涼みになった。

時おり、峠を越えていく車が通る。国浩は大声で注意を呼びかける。島子は立ち止まって、車が通過するのを待ち、すぐに歩き出す。自分でも不思議なほど、活力があふれて、頗る元気であった。その源には、近々約束されている将来への不安が、動力となっているのかもしれない、となんの脈絡もなく一瞬、心によぎった。ぎゅっとまばたきをした。

「島子さん、いつから東京へ」国浩が切り出した。島子はぎょっとした。

「早くて夏の終わり。今年中にはきっと行きます」

「もう、二年でしたっけ」

「え。お付き合い?秋で二年です。同棲にはちょっと、早すぎますかね?」とりすまして冗談したが、同棲、と言葉を出すのが恥ずかしかった。

「はは、僕が言いたいのはそこじゃないですよ。東京は、悪いです。ここにいた方がいい」

「それはこないだから何度も拝聴しております。東京はきっと素敵なところに違いないわ。だってショッピング・センターがあるんでしょう、有名なカフェーがあるんでしょう、美容室もお洋服屋さんもそこかしこにあるんでしょう。彼から何度も教えてもらっています」

「そんなの、いらない。ありすぎるんですよ。直径10メートル圏内に、七軒のカフェーがありますよ。しかも三階建てのビル、全部カフェー。」国浩は自分で言っておかしくて笑ってしまった。しかし大真面目だった。

「いいじゃないですか、毎日違うメニューが選べるわ。毎晩、電話してますけど、彼が東京を悪く言ったことは一度もないわ」

二人は、息があがるのでしばらく黙って歩いた。国浩はジャケットの袖口で、顔にたっぷり滴る汗を拭い、舌を上顎にこすりつけて、唾液をゴクリと飲みこんだ。島子のショルダーバッグの中に、水筒があるのはわかっているけれど、頼んで飲ませてもらうまで図々しくなれるほど自分はこの人と親しくない。ペットボトルでも買っておけばよかった、と後悔は今さらすぎて苦笑した。

鳥のうららかな鳴き声が、山の表面を通って落ちてゆく。なんの影もないのに、ガサガサと林が揺れたりする。

道沿いに、一条の渠がずっと流れていて、そのそばに苔むした地蔵様がぽつねんと立っていた。濁ったカップ酒と、錆びて青くなった十円玉が二枚、無造作に置かれている。国浩は、かつてここへ立ち止まって、膝をついた人がいたことを想像した。そして、心強くなった。

燦々ときらめく木立や、生き物を感じる音や、島子の着ているワンピースの裾の、可愛らしい刺繍に、国浩はにわかに、無常の喜びを噛みしめる。部屋にこもっているばかりで頭から離れなかった多くの懸念や煩悶は、今この時だけは何も考えまい。

じわじわと来る筋肉の痛み、全身ににじむ汗、貼りつくシャツ。そんなことが、なによりの快楽に感じる。これこそが生きる意味だ、とまなこを熱くする。

何曲がりして、どれくらい登ってきたのか、一所懸命ですっかり忘れてしまったが、ふと顔を上げると、林間から遠くのほうに鋭い連峰が見えた。頂きの辺りが、雪で白く烟って空の色と重なっている。幽玄なその姿に見惚れていると、カタタン、カタタン、カタタン……と、盆地の真ん中を走っている列車の、軽快な車輪の響きが、こんな山奥にも聞こえてきて、国浩は感動して耳をすませた。

東京からほとんど逃げるようにここへ来て、生活をする中で町のあたたかな優しさをたくさん貰ったけれど、国浩は、自分は余所者であるという意識の引き締めをずっとしていた。そうしなければ、この場所に甘えて駄々を捏ねてしまうのが怖かった。けれど、国浩は今、その意識の解放を、許された気がした。列車の音ははやがて山間の方に消えていった。

島子に話しかける。

「東京へ行くならね、気をつけることがたくさんあるよ」

「あら、なんですの?危ないってこと?」島子の声はだいぶへたっていた。投げやりだった。

「いやー、そうじゃない。まず一つ、曇った昼は暗い顔をして地面をにらみながら歩くこと」

「どうして」笑った。国浩は、優しくしようと思った。

「どうしてって、東京の人はみんなそうしてるからですよ。早歩きも忘れずに。郷に入ては郷に従え、です。それから、ビルにひびく大声でバカ笑いをすること。なんにも面白くなくても、周りが笑ったら笑うんです。下品に。それから、一秒も無駄にしてはならないから、常に何かをしてなきゃいけない。ハウツー本でも、お化粧直しでも、単語帳でもいいから持って歩くんです。ぼーっとしてちゃ、非難されます」

「意地悪。」

島子はワンピースをひるがえして、後ろを向きながら歩いて息を整えた。それからあかんべをした。

そろそろひらけてくる様子で、直線に伸びる道のてっぺん、茂みのアーチに太陽の光が集中して眩い。あと、五百メートルといったところだ。ここで、国浩が島子を抜かした。島子はもう、かなりバテていた。頬は色鉛筆で塗ったように紅潮し、まぶたが落ちている。持久力の限界であった。水筒の水をゴクゴク飲んで、体の火照りを冷ますのに努めた。

国浩は歩調を緩めながら、ストップを待ったが、ついに一度も休まず登りきった。

見晴らしは隆起した崖の上だった。景色は三方、高い尾根が雄大に広がっていて、かくしてふもとの町は堅固に護られていた。平たい草地の上に、二人は腰を下ろして呼吸を直した。冷ややかなそよ風が、島子の髪をくすぐったく舞い上げて、後ろへ駆けていった。島子がわけもなく笑うと、国浩もつられて笑った。くたくたに疲れた。

体を落ち着かせると、国浩は幾重にも重なった山脈を、目に焼き付けるようにじっと眺望した。それから、ゆっくりと暮れにかたむいている静かな町を見下ろした。この山を含めて、四方、隙のない、平和な盆地。泣きたくなるほど、この土地は護られている。つらい時も、しあわせな時も、いつだって山が見守ってくれている。こんなに確かなことってあるだろうか、と国浩は悔しくなった。

鎮守の山々。島子の顔から、わざとそむけて言い捨てた。

「こんなにお山さんに守られているのに、ここを離れるなんて、お馬鹿さんです。東京は、誰も何も、守ってくれるものなんていません。全部、自分の責任にされる。一人で、戦わなくちゃいけない。悲しいときも嬉しいときも一人ぼっちです」

島子が、この町が、羨ましかった。ここへ来てから、国浩には、都会は全て悪いものとしか思えなかった。そして、島子が抱いている東京への幻想が、いつか壊される時がくると想像すると、持つべきではない感情が抑えきれなくなった。しかし、おどす心持ちは、本気の説得が半分、島子の明るい性格に砕けたいおもいが半分で、自分がどうしようもできないのを、本当はよく知っている。島子も、自身のことも。

明日、帰るのだった。東京には、こなさなくてはならない物事が、国浩をたくさん待っている。近すぎて見失っている、染みのような私生活に、また明日から戻る。

この場所で発見した、新しい気づきを、新鮮なまま持ち帰るために、今は甘えてはならないと、再び気持ちを引き締めた。島子は、国浩の顔を横目で見て、優しい忠告を頭のなかで反芻した。形のない不安はたえず襲ってくるけれど、絶対的な確信を持っている島子にとって、その言葉は甘くて美味しい、キャンディーのようだった。

「私、ここのこと絶対に忘れません。何か嫌なことがあったら、歩いて帰ってくればいいのよ。この国は、狭いようですから」

春の突風が、二人を掠めて天高く過ぎ去った。空にはもう雲はなくなって、青く、濃い。

故郷がある。どこへ行っても、それはずっと。島子には、荘厳な山々も、優しい人情も、尊ばしく考えられない。けれど故郷は全てここに在り、養われたしたたかな勇気は、心に宿り、一瞬でも忘れない。

国浩は島子を振り向いた。自分を守ってくれる場所があるという勇気に、彼女は守られているのだ。じっと自分の育った町を見つめる瞳には、東京と変わらない快晴の色が映っていた。

二人はしばらくそこに座って、東京にそれぞれの思いを馳せた。それからゆっくり下山して、煮えるような夕日を眺めながら宿まで帰った。

夕餉を食べたあと、国浩は日記帳に今日の出来事をしたためた。それからこう書いて締めた。

「あす、九時に発つ。僕は大事な心がけを今まで忘れていた。環境に殺されるとばかり考えていたが、それは違った。僕自身が生きる力を忘れて、環境ばかり気にしていたにすぎなかった。生きるとは、自分を見つめ続けることだと、今日は思った。」








小説「風呂」

風呂


手のひらを合わせてそっと押すと、ドアはばちんと軽やかに開いて、よろけた私はつま先でステップを踏みながら浴室に入った。だれかがさっきまで使っていたのだろう、タイルを敷き詰めた床には水滴がいっぱい散っていて、私のはだかの足の裏に冷たく吸いついてくる。ふくらはぎの奥のほうからお尻の骨へ、あんまり冷たくって痛くなったから、飛び跳ねて飛沫を蹴散らし、早く温まろうっと、カランをゆっくり回した。

枝垂れヤナギのように繊細な水圧は、だんだんくっきりと硬調になり、後から湯気の色がベールになってそれを覆いかくす。右手の指先でぬるみをたしかめたら、まず首すじに掛けて、のの字を書くみたいにザバザバと、おなかや脇の下をさする。熱くて、冷えた皮膚は亀裂が走るような感覚になる。今度は反対側。お湯の温度に慣れてきたら、肩のすぐ下のくぼんでいるあたりや、骨が出ていてみっともない胸や、小さなちくびにシャワーヘッドをあてて、優しくこする。

数センチくらい窓を開けていて、金網からよく晴れた午後の青空が見える。換気のために開けているので、ひややかな風が時おりぺたぺたと体に触れてきて、私はその寒さから心臓を守るために、肩を張って猫背になる。おへそから真っ直ぐつらぬいて、ちょうど裏あたりの背骨が、腰まわりの皮膚を引っ張ってぽこんと突き出る。なんか、すっごく恥ずかしい。人間の、ありのままの姿を見せているみたい。私は精いっぱい腕を伸ばしてシャワーを立てかけてから、あたまをぐぐっと折り曲げて、突進した。

いつもは、水が入るのが怖くて目を閉じているけど、そぉっとまぶたをあけてみる。不思議なもので、頭のてっぺんからたくさんの水が顔の真ん中へ流れているのに、まぶたと涙袋のふちを沿って、目には入ってこない。まばたきをしても、まつ毛がちゃんと弾いてくれる。

私は、十本の指で頭皮のよごれを丁寧に落とす。太ももをぱっかり大きくひらいて、お股のあいだから濁ったり、ゆがんだりしてきらきらしているタイルをじっくり見つめた。細い傷が無数についていて、茶色く汚れている。継ぎ目のゴムみたいな柔らかいみぞは、タイルがはねた水を集めて、排水口に繋げている。タイルの模様は、面白い。教科書で見た、壁画のようだし、天候の移り変わりを表した絵図のようにも見える。あごから滴り落ちる大きなしずくが、その一枚をいろいろな形に変える。

いっかいシャワーを止めて、髪をかるく絞ってから、シャンプーをいっぱい出して頭に塗りたくる。シャンプーって、難しい。どこからどう洗ったらいいのかわからないし、長い髪の毛が邪魔して頭皮をきちんと洗えていない気がする。まず、ぐしゃぐしゃに髪の毛をかき乱してシャンプー液を全体に馴染ませてから、指先はダンスを踊る足取りをイメージをして、タップ、ステップ、ふわふわに泡立てる。にきびの治らないおでこのきわをなぞり、てっぺんからでっぱってる側面にかけては力強く、耳の裏はくすぐったくて気持ちいい。後ろ髪をぜんぶ持ち上げて、毛根を一本ずつ磨くように、襟足には時間をかける。

髪の毛を洗っているあいだ、十なん年も繰り返している行為は筋肉と神経に染みついていて、何も考えなくても体が動くから、私はシャンプーをすることに対して真剣になっていない。爪を立てて強く掻いたり、やさしく撫でたりしながら、私はまぶたの裏で部屋のクローゼットを開けて、きょう着るワンピースを選ぶ。お気に入りのぶどう色のワンピースは、きのうクリーニングに出したから、きょうはお日様のまぶしいお天気に合わせて、丸襟のレモンエローにしようかな。そしたらパンプスと、帽子のリボンもイエローに統一して、ソックスとパナマ帽を白にすれば、季節の旬のグレープフルーツ・ジュースのイメージだわ。

お洋服のことを考えるのは、とても楽しくて、はずむ指先にどんどんシャボンが大きくなり、首の根から泡が転がり落ちていく。私はもうグレープフルーツになった気持ちで、湯冷めしてしまった肌寒さを清涼な酸味に変換させながら、面白くくつくつと笑う。

カランをひねって、お湯が出るまでラストスパート、ごしごしと洗い終えたら、頭をまっ逆さまにして、後頭部からすすいでいく。これがなかなか難儀なわざで、何度流しても泡が毛根のほうに残ってしまいがちだから、全体を二回、ぬかりなくやる。首が凝り固まってしまうから、柔軟に動いてシャワーを均一に当てる。

もうじゅうぶん。根もとから水分をぎゅっとしぼり落として、バスタブのへりに用意していたハンドタオルで髪をまとめる。シャワーを蛇口に切り換えて、洗面器になみなみお湯を張ったら、洗顔せっけんを濡れた手のひらにくすぐるようにすべらせて、よく揉み合わせて顔を埋ずめる。頬の下、あご、おでこ、赤ニキビがぽつぽつあって、早く治って欲しいからつい強い力で押してしまうけど、もこもこの泡をふんだんに塗りたくって、ていねいに洗浄する。そのうち、自分の無心に気づくと、ふと悲しい気持ちが萌したりする。わかっている、普だんはニキビがあるからおブスに見えるんだって自分に言い聞かせているけど、ほんとうはこのニキビが全部なくなったって、私は可愛くないのだろう。なんの根拠もないけれど、そういう決めつけが一度心に宿ると、いつもしばらく落ち込んでしまう。洗面器からすくっては流して、きれいに拭ってしまっても、赤ニキビは洗う前と変わらない大きさで私の指先に触れた。

シャワーを浴びる。椅子から立ち上がり、お尻や膝の裏、足の指先までたっぷり濡らしたら、アカスリにボディ・ソープをすり込んで、肌の上にすべらせる。左腕から、二の腕、わきの下と動かして、右腕も。肘はよく洗ってきれいにしておかないと、絶対にお嫁さんになれないと子供の頃母に言われていた。だから念入りにやる。肩から耳の裏へ、指を器用に屈伸させてたどる。首の裏、肩甲骨のあたりはとても洗いにくい。両腕をうまく組んで、洗い残しがないようにする。背骨のみぞをたどって、腰。いやな柔らかさを感じて、お肉がついてきたことがわかる。肋骨は、少し浮き出ている。おっぱいがなくて、二の腕がふとくて、肋骨が浮き出ているなんて、みにくい体つきだ。お腹のよこ、おなか、おへそ。おへそなんかいらんって、大好きな小説を初めて読んだときに書いてあって、私はショックを受けた。おへそが必要か、不要かなんて、そんな簡単で身近なことを、今まで一度も考えたことなかった自分が、なんだか恥ずかしかった。

陰毛。自分の体の中で、一番好きな部位。ちゃんと泡で包んであげると、髪の毛みたいにサラサラになる。この小さな毛のかたまりが、身を寄せ合っている生き物みたいで愛おしい。でも、なぜ陰毛があるのかは、知らない。知らなくても、私はそれを、くしゅくしゅに丸めたり、とんがらせたりして、遊ぶ。

内腿、膝の裏、膝こぞうはうっかり怠ると黒ずんでくるらしいから、忘れないように。私は膝上のワンピースばかり着るから、脚には特に時間をかける。誰に向けた美意識なんだろうって時々考えるけれど、毎日脚が美しくすべすべであると確認するのが楽しい。そのうち私の脚を、きれいだと思ってくれる誰かが褒めてくれることを、ひそかに想像する。

足の指は一本一本、関節まで愛撫する。かかとはくすぐったくてゾワゾワするから、あまりよく洗えない。足の裏を終えるときには、肩や胸あたりの泡は乾いて粘り気を帯びている。それがイヤで、さっさとシャワーを出す。泡みどろの下から清潔になったハリのある皮膚の感触を、全身にふれて確かめながら、金網の外を眺める。

今日は映画を観に行く予定だったけれど、こんなに晴れているのなら、お散歩をするのもいいな。きっと暖かくて気持ちいいだろう。私みたいに、ぽかぽか陽気を目当てにお日様の元へ集まる生き物が、たくさんいるに違いない。それは新しく芽吹いた野草だったり、その野草を見つけにいく小さな虫たちだったり、のら猫だったり、室内犬だって、今日は飼い主におねだりをして、悠々とお外で遊びたいんじゃないかしら。そんな生命力に満ちた道を、私はイエローのワンピースとパンプスで、お日様の光のようにまっすぐに歩いて、またたくさん汗をかく。そしたらまた、お風呂に入りたいな、なんて、もう明日のお風呂のことを思いながら、ソープを流してしまって、カランをきつく締めた。

湯気がもうもうとたち込めている。水滴が揺らめくタイルの床や、シャンプーボトルもタオルかけも、真っ青な空の色にそまって濡れている。じっくりと体を洗ったから、ちょっと疲れちゃった。私はお腹を突き出して大きく深呼吸を一つする。そして、バスタブのふたを壁際に立てかけて、やっぱり空色を映した柔らかな湯船のなかに、ずぶずぶと体を沈めていった。




芸術、とは、まずひき比べないこと。

私は人と話すとき、だいたいうつむいている。それか全く不自然な方をじっと見つめながら、顔だけは表情豊かに話している。
目が合わせられない。どういった風にすれば自然体なのか、意識しすぎて逃げてしまいたくて、まともに人の顔を見れない。今、こうやって書いているブログも、どんな顔をさせて発信すればいいのかわからないから、文章がかなりぎこちない。
誰かと話すときは、太宰さんじゃないけど、自然の風景なんかを見ながら話したい。人を、顔を見るのは、いやだ。自分のきたない内心が、ぜんぶ吸い取られるようですごくいやだし、相手の表情なんて、どうでもいい。

人が怖い。人への警戒心が強すぎて、自然体でいられない。

生き物より、静物が好きだ。成人しているが、ぬいぐるみとおともだちである。家から見渡せる、関東山地の低い尾根が好き。本を読むが、私は本の内容より、本のかたちが好き。国語辞典は、とくに大好き。

人の顔を見ないし、人の行動も見ていないから、人を描くのが長年とても苦手である。
自分に合った小説って、なんだろうと、最近考える。ヒューマンドラマや、複雑な人間のいざこざを描くことは、少なくともわたしには合っていないだろう。いや、うまく描けないはずだ。
物語とは、だいたいが人間模様を描くものだと昔から決まっている。でも、それが私には合っていない。

新しい文学の創造。これを、密かに企んでいる。夜、おやすみの時間に、電気を暗くして、布団に入って、毛布をおでこまでかぶって、私は自分の新しい文学を想像する。