青に透けた肉塊

君は変人に憧れている常識人だった。

青に透けた肉塊

美しい小説を書きたい。しぼりたての牛乳を注いだ女の身体、すりたての墨汁を流したショートカットの髪、柔らかな草、さらさらと指の間から落ちる新湯、窓辺で午睡する老猫……。音も匂いも風もない、過ぎ去ってゆく一瞬を描いた、この世のどこにもない美しい小説を書きたいと、心を病んでから、幾日が過ぎたろうか。

語りたいことはたくさんある。時勢と現代について、自分の成長と堕落、将来への不安、希望、野望。だが一切を隠すのが美徳というものである。人間は唯一自分の苦しみや望みを理解することができるが、また唯一美しく在ることができる生き物である。私は後者を取りたいと願っている。

烏兎匆匆の21年、否、曠日弥久の半生を過ごし、鏡の自分は青写真とずいぶん違う容貌になってしまった。その顔を上げると、知らない道が見えている。鈍い神経なので違和感なく生きているが、時たまこうして言語化できない予感を抱く。

美しい小説を書きたい。まだ、忘れていない。

告白

**様


 啓蟄が過ぎ、日に日に暖かくなっています。近所の桃はもう満開で、若葉を伸ばしている枝もあります。

 窓外から見える桜の木はまだ咲いていないでしょうが、きっともう直ぐです。けれどもあなたは、今は、あすこにいない。そう思われます。

 あなたと出会ってから、四年が経過しました。本当に、経過という表現が妥当で、私の心に積もったものはほとんど何もありません。世界情勢も、ニウスも、生死も、風のようにすり抜けてゆきます。

 あなたの事は、カレンダーをめくるごとにひとつひとつ忘れて、けれども、名前とお顔は、鮮明に覚えています。だいたいの時間は考えていないけれど、一日のうち一回、何かの拍子に思い出します。それをたとえるならば、背後から呼びかけられた時の、ハッとするような感覚で、胸がドキドキして、刹那、息を忘れてしまいます。

 私はこのように、自分が受けてきた感覚をしっかり記憶しながら、またそれを大切にしながら、これまでの人生を送ってきました。

 畢竟あの時と同じように、自分のことばかり考え、痛みや悲しみ、辛さ、苦しさを表面に出した我欲を掲げて、呉下の阿蒙さながら生きて参りました。私は、人の皮を被った獣です。

 あなたの人生を毒牙にかけたこと、昨日の出来事のように、ハッキリと憶えています。この先も、永遠に忘れません。

 あなたがもし、私という惨い存在から記憶を離して、どこかでしあわせな人生を送っているとしたら、私にとってそれ以上の幸福はありません。この先どんな不幸が私の心身を蝕もうとも、私はそれを受け入れます。

 あなたの健康と幸せを、心から願っています。そしてこの願いがあなたの元へ届かないように、ただ、霧消するようにと思います。

所感

どんなことにも意見が分かれる夫婦の元に生まれた子供は幸福だろう。意志さえしっかりしているならば、異なる主張を客観的に見つめながら、自分で考えて選択する力を育める。

柳に雪折れなし。百家争鳴に立ち止まって耳を傾け、見聞を広げることは大切だ。多くの人と関わるか、書物をたくさん読むか、この2つのどちらかができていれば、人はよくたわみ、無意識の希望を離さずに、自分の道を切り開いて進んでゆけるだろう。

ストイックであれば。

未完/擱筆 小説「翌る日は」

翌る日は(未完)



自分の寝息のはずみが、耳の奥底からゆっくりと耳朶へ近づいてくるように聞こえ、レースカーテンの網目から漏れる光のような、細かな眩しさをまぶたの裏に感じて、聡子は朝に気づき、目を開けた。

寝床である和室の障子は、朝の日差しをふっくらと帯びて、ものしずかに室内を明るくしている。円みのある影が布団のへりから畳の上へ、聡子は上体を柔軟に反らせながら、のびやかに伸ばした。ちゃぶ台の上に置かれた眼鏡をかけ、両膝をたたみ、手のひらを布団に力いっぱい押し付けて、勢いよく立ち上がる。今日も、私は健康、と、よろめくことなく立てた自信を動力にして、昨夜置いておいたコップの水を飲み干し、布団をおしいれの中に、あふれてこないように押し込んでから、老朽と光陰の流れに侵食されている、年老いたにおいのする廊下を、寝巻きの裾を引きずって洗面所へと歩いた。

口をすすぎ、入れ歯をはめて小用を済ませる。隣室はダイニング・キッチンのカーテンを開けて、冷蔵庫から食パンを出し、一枚をオーブントースターへ入れる。昨夜の冷たさがまだ残る水道で、軽く手を洗い、野菜室からラップした半個の玉ねぎと、人参を出して、細切りにする。鍋に水を張り、火をかけ、痩せた二の腕を震わせながら持ち上げた、まな板の上のそれらを落とす。火力は強いままだが、そのままふたをして、きれいに焼けたトーストにたっぷりバターを塗る。鍋が沸騰し始めたら火を止めて、顆粒コンソメと塩を入れ、かき混ぜながら深皿によそう。

聡子は時々、この朝食メニューをいつから続けているのか、食べながら考えることがあるが、はっきりと思い出せたためしは一度もない。しかしそんなことも、毎日かならず余らせる少量のスープも気にせずに、鍋の中身をながしに棄てて、お盆を持って居間へ座り、テレビをつけて、黙々と食べ始めた。

テレビは、動物の特集をやっている。聡子は画面を見つめて肘をつき、パンの耳をかじりながら、そういえば祐奈は犬を飼っていたけれど、あの犬は何歳になったのかしら、とそぞろに長女を思い出してみたり、また近所の子どもが家の前を走っていく、生命力に満ちたはしゃぎ声にふと首を向けてみたりして、悠長に一日の始まりを迎えた。あまり考え事をしないのが聡子の元来の性格だが、特に朝は、その日の予定すら思い出さず、無為に時間を過ごすことを心がけていた。

バターの届いていないミミの部分をスープに浸して完食し、パンくずが浮いた油の揺れるコンソメスープを、野菜はろくに咀嚼もせず飲み込む。食べ終わってからも、しばらくテレビを見続けながら、前歯に挟まったのを、キリンが草を食む姿態そっくりに舌先と下あごを使って取り終えると、ようやく立ち上がって尻を払った。

食器を片付け、電子レンジでパックのごはんを温めている間、寝室に戻り白いブラウスとベージュのパンツに着替える。毎週、二人の娘が聡子の様子を見に遊びに来る日はこの装いにすると決めていて、昨日の夜には部屋の長押に衣紋掛けをつっかけていた。髪をコームで整えて、白粉と紅を軽くさすと丁度チーンとレンジがなった。

仏飯器を食器棚から取り出してご飯を小ぶりに盛り、あまったものはラップにくるみ冷凍庫に入れる。それから湯呑みにポットの白湯を注ぐ。居間には黒檀製の台付き仏壇があり、聡子は畳の上に膝を進めて、丸まった短い指先で器用に鍵をはずし、大戸と障子を開いて仏飯と湯呑みを置いた。

マッチを擦り、指先が赤々として、爪が熱を帯びる前に線香を一本抜き、手早く火を移して吹き消す。すでに満杯になっている香炉にそっとさし、かねを撥で軽く打ち鳴らした。

「…」

沈黙。

自分は今何を思っていたのか、以前に何をしていたのかすら意識になく、聡子はまばたきをする間に仏壇の前から立ち上がっていた。線香の煙は、立ち去った聡子の後ろを少し追い、すぐに翻り、真っ直ぐに薫りて伸びた。

娘の祐奈と紘奈がくるまで、三時間あまり。聡子は、いつも通りに過ごす。

一階全室の隅々まで掃除機をかけて、押入れから座布団を出し、三枚を数えて居間のテーブル周りに敷く。娘のどちらかが座る一枚の配置を、テレビ側にするか廊下側にするか迷い、決めたら余った座布団をまた押入れに仕舞って、ふすまを閉め忘れたままキッチンに向かう。

米袋から米を二合分計り、ボウルに入れて、水道の水ををたっぷりに満たす。揉むように軽く洗い、水を減らし、指先でするどく研ぎ、また水を入れる。二度めの洗米の最中、聡子は流れっぱなしになっていた水道の水に、突然ハッと顔を上げて、慌ててレバーをひねった。そして、つと、首を居間の方へ軽く向け、またボウルに視線を戻し、静かにまぶたを伏せて、とぎ汁をシンクに流した。朝目覚めたばかりの気だるさは日が高くなるに連れて薄れてゆき、安定した動力が身体に馴染んできた時分で、聡子の表情は先ほどと同じか、より活き活きとして汗ばみ、一瞬の間の気色は褪せた。

炊飯のスイッチを押し、きゅうりとかぶの浅漬けを作り終えた頃、約束の時間通りに長女の祐奈が来た。

「お母さーん、いろいろ食材買ってきたよ」

丸々と太った体に汗をかき、荒々しく呼吸を弾ませながら靴を脱いで、迎えた聡子を両手の荷物で押すようにキッチンへ入る。一本にまとめた長い髪のほつれが貼りついた顔は、柔和に笑って母を見つめる。

聡子は、さっそく冷蔵庫を忙しくかき回す娘の後ろ姿を見つめながら、困ったように笑って言う。

「ありがとうね、でもいつももうちょっと少なくていいのよ。ゆうちゃんたちが来るのは週に一回だけだし」

「あんまりお惣菜ばかり食べてたらダメよ。朝ごはんは作ってるだろうけど、ちゃんと栄養をとらないと。お母さんはまだまだ体力があるんだから」

20分ほど経ってから、次女の紘奈が来た。聡子が迎えると、気だるげな態度でひらひらと手を上げて挨拶し、のんびりサンダルを脱いで上がった。脱色した派手な髪を肩にながし、タンクトップと短パンから伸びる手足は、祐奈と対照的にひどく痩せている。聡子のふっくらした目元は祐奈が、高い鼻筋は紘奈がよく似ていた。しかし体型や格好は、自分の遺伝ではないと、二人が揃って立つと聡子はいつも思うのだった。

聡子が居間に入ると、二人の他愛のない口論が始まった。情熱的な長女とものぐさな次女は、元来の性格が合っていないと承知しているので、子供の頃からのそれを観戦者のような心情で聞いているのが常だった。

「ひろ、どうしていつも遅れるの?」

「支度に時間がかかったんだよ…。てゆーか、遅れたって別に他人じゃないんだしいいじゃん」

「お母さんのうちに来る日は、一緒にごはんを作るって決めたでしょう。私はひろの役割も考えてメニューを決めてるんだから」

「私は姉ちゃんちの息子みたいに子供じゃないんだし役割なんてテキトーでいいじゃないの」

聡子はふと今朝テレビで見た特集を思い出して、座ったまま怒鳴った。

「そういえば、ゆうちゃん」

「なあにー、お母さん?」

「朝ねえ動物の番組見てて思い出したんだけど、ゆうちゃんちのワンちゃんっていくつになったの?」

「うちのチワワはもう16よぉ」

「はっ?姉ちゃんちのアレ16?!犬ってそんなに生きるの?」

「いやあ、うちはすごい長寿なのよね。息子が二歳の頃に飼い始めてからだけど、まーだまだ元気よ」

聡子は黙して、座布団の上で腰を伸ばし、自分は犬が何歳くらいまで生きるのか今まで知らないでいたという事実を、交響曲でも聴いているような心地で真摯に受け止めた。二人の会話はまだ続いていたが、事実を知った自分の心境が恥へとたどるのかを考え、それを否定し、新しい知識を得た素直な認知に落ち着いた。聡子は歳を取ってから、初めて知った物事を受け入れるのがなかなか難儀になった。しかし娘たちと過ごしていると、それはしばしば起こることであった。

そういう時、聡子は自分のつかの間の体裁をさっぱりと忘れてしまうように努める。折良く、二人の会話は別の話題に移った。もう、口げんかをしていた態度はなく、呼吸の合った調子だった。

(擱筆)



勉強ばかりしていたらずいぶん書き進めることを忘れていた。どうもあんまり長く手をつけないと自分の作品なのに他人の姿を見ているような気持ちになって仕方ない。

このブログも同じで、たまに開く時は行ってなかった学校の同窓会に顔を出すような、どこか冷めた心情になる。前回のブログは二カ月以上前で、その前が四カ月前だからまあそうもなる。

けれど志しだけは一貫して持続しているのも事実だ。競合する者こそいないが自分の理想を見つめ、時機を待っている。


翌る日はは再度練り直して一から完成まで作りたい。





独り言。(ペンネーム変えました)

「恥を認める」。これをできる人は、なかなかいない。1000人中1人くらいではないかと私は予想している。私が今まで出会ってきた人、せいぜい80人くらいで、そのうちそれを、自然に、性格の根底からできていた人は、たった一人であった。つまり、80人中1人の確率で有ることは、最低限まちがいではない。いや、私は算数が特に苦手だからどうだろう、あ、いやはや、これはまた、即座に言い訳を、あ、いやいや。

恥を認める。私は群を抜いて、これが全くできない。生きていること自体がもう恥のような毎日であるのに、他人が非難しても、知り合いがたしなめても、身近な優しい人が、大丈夫?って一言、ヒントを出しても、鋭利に研がれたプライドの剣で私はそれを刺し殺す。それどころか、メタメタにして、跡形もなくぶっ壊す。そして何事もなかったように元通りに腰を落ち着ける。

なかなか、できないものである。柔能く剛を制す、これに尽きるというのは、真理である。この柔らかという字は、恥を認めることにおいて、ふざけて茶化すという意味ではなく、素直に受けとめて、相手に謝る、非を事実だと理解して、なにも恥を恥と思えというわけでなく、また恥する対象にむやみに謝ったりするというわけでもなく、次の自分の踏み台にする意志を表明する。恥辱や情けなさを盾にしないで、自分の身に受け止める、その、柔らかさだと思う。

指をさされたら、うん、ごめん、あの時は。(即座に結論だけを伝える。)僕もまだ、若かった。(認めるだけで言い訳しない。そしてむやみに謝らない。心底から申し訳ないと思う相手にだけ謝る。)あの時のことを、僕は何度も考えて、もう二度としないために、そしてもっとより良く生きるために、こういう目標を持って今を生きているんだ。(転換をする。)眼差しも背筋も、真剣である。声のトーンは、低めである。これだけで、多くの人は許すだろう。語弊を招くような意味合いではなく、これだけ、これだけできることが、恥を認めるという姿勢なのだ。もちろん体裁だけではなく、本気でそう考えていなけりゃただの嘘になるけど、行為はたったこれだけである。

なぜ我々は、こんな簡単なことができないのか。できないばかりか、プライドの防御にハリボテを作り、余計に非難を浴びてしまうのが常である。

美徳なのか、恥という事実が一切ない状況が。他人事ではないけれど、それは無茶だ。恥のない人生なんて、なんの学びもない。私は恥にだけは人一倍詳しいから、断言できるけれども、あいにく学びにするには認めなければならないので、白ける。


何か恥のことを全く見当違いな心で見ていないか。ほんとうは、自分の答えはわかっているけれど、今の私にはまだ、この遠吠えが精一杯の誠意である。