青に透けた肉塊

君は変人に憧れている常識人だった。

小説「そして」

そして

「分けてほしいな」
ひとつぶの掠れた言葉は、木戸の下唇をふるわして消えた。
透けた日光が幾重にも帯をゆらしていた。美穂が暮らす六畳一間の洋室には、窓にカーテンがかかっていない。衣紋掛けにいっぱいワンピースを吊るして、それでそとから入る色々な何かを遮蔽していた。木戸は初めてこの部屋に入った時、床に散らばる夥しい数の古書を眺めて、それから今は美穂の生活にカーテンが不要なものと了解している。
無情なフローリングに、汗をかいたグラスが遠方に二個。ひとつはつまらなさそうに空で、もうひとつは溶けた氷の透明と、コーヒー牛乳がきれいに分離している。先にカーテンのない部屋と描写したが、あまつさえテーブルや、ろくにたんすもここにはないのだった。
ただ、夥しい数の古書が散らばっている。
ふたりはとても静かだった。だからすぐ近くの国道で車がすべる音や、隣人のテレビの音が余韻に染みついていた。美穂はすこし長い髪を左耳の下でしばって、壁にもたれながら黒い瞳に明朝体の羅列を映していて、木戸は等間隔を測りながら手に持つ本をめくったり戻したり音を立てて、そして美穂を見ていた。
半開きにした口で、肺をいたわらない呼吸をしている。読んでいるというよりかは、空うを見つめている目つきだ、と木戸は思った。美穂が小さな咳をすると、無意味に視線を窓のワンピースに移して、いいかげんに開いていたページを真剣に読もうと勢いに試みた。だが二行だけを上の空で舐めずって、また美穂を眺めるのだった。
木戸は、美しい横顔がこちらに微笑みかけてくれる幻影を、のぼせたまばたきに見た。彼はここに訪れる何時間も前から、彼女のことを気にして仕方なかったのだ。純情は儚く、一方的な期待を語らずに委ねて、それは無意識に挙措をつくる。
事実、木戸は美穂の些細なおとやこえやうごきに何もかもを忘れるのに、美穂は木戸が本を読んでいるふりをしようがしまいが地球の出来事ではないらしかった。ヤギの餌にもならない紙の鈍器と、真剣に恋をしている。しかしその事実がいっそう木戸の心を奮励させ、揺るがすのだった。
分けてほしいな。
「…」
もし、この退屈なくすぶる居心地を思うがままに斬ったら、何が生まれるだろうか。読書に取り憑かれた体を抱きしめて、キッスをしたら。嫌がるかな、まさか受け入れてくれはしないだろう。大声で怒鳴ってみたら、きっとびっくりするかな。あまりのもどかしさで潜在的に、くだらない欲情が視界にぼやける。
木戸は美穂が羨ましかった。何かに夢中になれる清き情熱を、分けてほしいと強く思った。自分の不甲斐なさと、美穂の本に対する頑是ない執着を気持ち悪いほど何度も比べた。
照りつける日射しにワンピースの色が溶けて、奇妙な色の部屋だ。
「ふふん」
ゆくりなく美穂が笑った。面白い言葉があったのだろう。木戸は細い指が支えている古くて汚い本を蹴っ飛ばしてやりたい衝動に駆られた。帰りたくさえなった。
克己心を探し求める若き魂はまだ気づかない。美穂の喉が、もう渇ききっていることに。