青に透けた肉塊

君は変人に憧れている常識人だった。

小説「盆地」

盆地


調えられた口髭をふっくらと繁らせた老爺のボーイが、国浩のテーブルへ恭しく料理を運んできた。化粧板の円形卓に慎重な挙措で皿を揃えて、前歯を全く見せずに必要な説明だけを玲瓏な声で申し上げると、にこりともせず厳粛に厨房へ引き下がっていった。国浩と島子は、ステレンスのガタガタうるさいワゴンとそれを押すボーイの後ろ姿を見届けると、顔を見合わせて微笑した。

紙製ナプキンを胸にかけ、並べられた料理の色彩に両の目を湿らせてから、国浩はフォークとナイフを手前に構えた。

「さ、食べましょう」

島子はナプキンを膝に敷いて、髪が落ちてこない程度に、淑やかに上体を傾けると、料理に向かって手のひらを合わせた。

「いただきます」

国浩は島子の所作を素直に心良く思った。二人はまずフレンチ風の前菜から、ゆっくりと食しながら会話をした。広いホールには二人のほかに客はなく、厨房から食器の触れ合う音が聞こえてくるくらい静かだった。ゆえに二人の声はよく通り、それは快適だった。

「しかし、昨晩のあなたのお父さんには本当に驚かされました」咀嚼を飲み込んでから、国浩は空を一瞥してククッと笑いを噛んだ。その昨晩が、ありありと思い出されるのである。

「何遍言われても私にはなにが面白かったのかわかりません」島子はナイフを扱いながら、たしなめるように冷たい口調でそう言ったが、つられてすぐに笑顔をこぼした。

「僕には不思議としか思えません」国浩は言葉の半分を自分に向けるように呟いた。

「素性の知れないただの逗留客に、あなたを預けてしまうんだから…。もっとも僕は、なにも悪企みはありませんけど、あなたのお父さんと会話したのは、一泊目のお帳場と、大浴場の湯加減がぬるかったときと、晩酌をしていただいた夜だけですよ。わからないなあ…。」

「あら、なにも訝しむことなんてありませんわ。だいいち、お父さんには私がお願いしたんじゃないですか。国浩さんが、明日はP山に登るっていうから私もついていきたい、って」

「そりゃー、あなたがついてくると言ったのには違いありませんが、わざわざ僕の部屋に来て、大笑いしながら肩を抱き締めてきたから何かと思ったら、丁重に宜しく頼まれてしまって…。かえって僕が不安になりした」

国浩は苦笑を隠さない。スープを飲んで、饒舌で渇いた口をうるおす。

テーブルの上はアラカルトに、魚のソテーとグリーンポタージュ、野菜と肉の前菜が新鮮な色味で、 二人の談笑を華やがせる。このレストランは、国浩が前日に町の地図で見つけたところで、山道途中に隠れる西洋風料理の老舗店とタウンガイドに書いてあった。住宅地を抜けた急勾配の坂の先の、小高い山肌の上、なるほど古びた建物は町を見渡せる崖にあって、国浩と島子は坂道を歩いて汗だくになった顔をぬぐいながら、隠れ家のようだ、秘密基地のようだとはしゃいだ。

厨房で話し声が聞こえる、二人のコックと、老爺のボーイの三人が店をやっている様子だ。ボーイは厨房のドア付近で銀製のトレーをかかえて目を閉じている。その背筋はそり返り、一糸乱れぬ繁った口髭を強調させ、のりのきいたベストはシワひとつなく、一介の老人の居眠りには印象として程遠い。国浩は時おり横目で、その甲冑人形のようなボーイの姿を見つめては、自分に足らん何かを刹那に感じた。

島子は魚のうろこも上手に切ってきれいに食べる。そつがない気品に満ちた手つきは自然体で嫌味がなく、ただ美味しそうに食事をしている。国浩はあまり島子を観るのもよろしくないかと思うが、そこに不粋な気持ちは何もないので、目を逸らしもしなかった。

「…でも、私にはやっぱり解りませんよ」島子はソテーの皿を完食した。

「今までの人生で、危険な目に遭わなかったからかしら。自分が信じられると一度でも思えた方なら、私、話したことない人でもお誘いがあればついて行ってしまうわ」

そう言う島子の表情は、身の危険を改めて案じている不安というよりも、国浩の懸念が妥当なものかじっくり考察しようという悠長な色が湛えられていた。国浩は最後のポタージュをよく味わって、ハンケチで口元を軽く拭いた。

「僕は、自分の育った環境をもとに考えて、そう感じただけです。島子さんは、とても安心しながら過ごされてきたのですね、素晴らしいことです」

自分の言葉につられるように、弧を描いたガラス張りの全面窓から、一週間前から滞在しているこの田舎町の景色を、しみじみと眺めた。

「事実、この町は優しい。僕はここへ来てから、いろんな人にたくさん親切にしてもらいました。皆さんが優しい心を持っているから、安心して暮らせるのでしょう。あなたの口から危険に遭ったことがないと聞くと、お父さんのあの笑顔も納得できます」

島子も町を眺めた。線路をたどって駅のすぐそば、家である旅館の煙突からもうもうと湯煙が立っている。近所なら知らない屋根はない、いつも通りの地元を、今さら優しいのかどうか判断をつけることも難しいが、国浩が語る意図の裏に隠している、自分の未知なる治安も、どこか遠くにあるらしいのは理解できた。

ソテーは粗挽き野菜のソースまで、スープは最後のひと匙まで食べ尽くし、デザートにシャーベットをたいらげてから、二人は満足して店を出た。ボーイは店の外までお送りをして、二人が見えなくなるまで深く辞儀をしていた。その間、ひとことも何も言わなかった。国浩は歩きながら少し振り返って、自分とこの人の人生は、比べ物にならないくらい全く違うものなのだろう、というようなことを考えた。

レストランを出ると、登ってきた道路がそのまま山頂へと続いていく一本道が、まっすぐに延びている。この道を、斜面に沿って四曲がりした先に見晴らしのスポットがあって、昨日、三時の茶を淹れに部屋へ上がった島子は、もう暫く滞在している歳の近い青年にすっかり馴れ馴れしく、中途に開いた調べ物をのぞき込むとこの見晴らしのスポットだった。P山はなかなか険しいらしいですがと言う国浩をよそに、父のいる帳場へ駆けていった次第だった。

春の新しくてやわらかい青空に、ちぎった綿のような雲が点々を打つ。陽気はすこし暑すぎるくらいだが、冷たい風が縦横に吹き荒れていて、結果的に良い気候であった。二人はどちらが先を行くでもなくたて列になって、目的地へ向けて歩きはじめた。

傾斜は低地からなかなか険しかった。しかし国浩はふだんトレーニングジムに通っているため、無駄に呼吸を荒げたりすぐに汗を垂らしたりすることはなかった。滞在中のほとんど毎日を机に向かって過ごしていたため、むしろ心地よい運動だと張りきった。だがしかし島子さんはすぐにへたるだろうとも思った。なにより十九の齢といえ体格はまだ少女のように細い。腕も足も脂肪しかついていないから、内臓もしっかりしてはないはずだと心配をしたが、その予想は大きく外れた。

島子は、バッタが草地から次の草地へ飛んでいくように、ぐんぐん歩いた。そしてあっという間に、国浩から三歩も距離を開けた。足腰の弾力と柔軟な跳躍は、さながらゴムボールのたわみのようであった。国浩は、自分の硬い筋肉を疑った。

「ふだんから歩かれているのですか」

「いえ、とくべつ運動はしておりませんが。」島子は振り向いて、ちょっと得意げな表情で笑った。国浩をお兄さんのように慕っているこの宿屋の娘は、お客様を相手ということも忘れて、無邪気な勝ち気をあらわにした。国浩はやはり自分も島子を妹のように思っているので、それをおおいに寛容して片眉を上げてみせた。

道は鬱蒼とした山林の中へ入っていく。重なり合う青葉に日の光がとけて、アスファルトも石壁も服やからだも、澄んだ緑色に透ける。林には冬に積もった雪が、どっしりと平らになって敷き詰められていて、木陰は一変して肌寒くなった。しかし歩き続ける二人の体温にはちょうど良い涼みになった。

時おり、峠を越えていく車が通る。国浩は大声で注意を呼びかける。島子は立ち止まって、車が通過するのを待ち、すぐに歩き出す。自分でも不思議なほど、活力があふれて、頗る元気であった。その源には、近々約束されている将来への不安が、動力となっているのかもしれない、となんの脈絡もなく一瞬、心によぎった。ぎゅっとまばたきをした。

「島子さん、いつから東京へ」国浩が切り出した。島子はぎょっとした。

「早くて夏の終わり。今年中にはきっと行きます」

「もう、二年でしたっけ」

「え。お付き合い?秋で二年です。同棲にはちょっと、早すぎますかね?」とりすまして冗談したが、同棲、と言葉を出すのが恥ずかしかった。

「はは、僕が言いたいのはそこじゃないですよ。東京は、悪いです。ここにいた方がいい」

「それはこないだから何度も拝聴しております。東京はきっと素敵なところに違いないわ。だってショッピング・センターがあるんでしょう、有名なカフェーがあるんでしょう、美容室もお洋服屋さんもそこかしこにあるんでしょう。彼から何度も教えてもらっています」

「そんなの、いらない。ありすぎるんですよ。直径10メートル圏内に、七軒のカフェーがありますよ。しかも三階建てのビル、全部カフェー。」国浩は自分で言っておかしくて笑ってしまった。しかし大真面目だった。

「いいじゃないですか、毎日違うメニューが選べるわ。毎晩、電話してますけど、彼が東京を悪く言ったことは一度もないわ」

二人は、息があがるのでしばらく黙って歩いた。国浩はジャケットの袖口で、顔にたっぷり滴る汗を拭い、舌を上顎にこすりつけて、唾液をゴクリと飲みこんだ。島子のショルダーバッグの中に、水筒があるのはわかっているけれど、頼んで飲ませてもらうまで図々しくなれるほど自分はこの人と親しくない。ペットボトルでも買っておけばよかった、と後悔は今さらすぎて苦笑した。

鳥のうららかな鳴き声が、山の表面を通って落ちてゆく。なんの影もないのに、ガサガサと林が揺れたりする。

道沿いに、一条の渠がずっと流れていて、そのそばに苔むした地蔵様がぽつねんと立っていた。濁ったカップ酒と、錆びて青くなった十円玉が二枚、無造作に置かれている。国浩は、かつてここへ立ち止まって、膝をついた人がいたことを想像した。そして、心強くなった。

燦々ときらめく木立や、生き物を感じる音や、島子の着ているワンピースの裾の、可愛らしい刺繍に、国浩はにわかに、無常の喜びを噛みしめる。部屋にこもっているばかりで頭から離れなかった多くの懸念や煩悶は、今この時だけは何も考えまい。

じわじわと来る筋肉の痛み、全身ににじむ汗、貼りつくシャツ。そんなことが、なによりの快楽に感じる。これこそが生きる意味だ、とまなこを熱くする。

何曲がりして、どれくらい登ってきたのか、一所懸命ですっかり忘れてしまったが、ふと顔を上げると、林間から遠くのほうに鋭い連峰が見えた。頂きの辺りが、雪で白く烟って空の色と重なっている。幽玄なその姿に見惚れていると、カタタン、カタタン、カタタン……と、盆地の真ん中を走っている列車の、軽快な車輪の響きが、こんな山奥にも聞こえてきて、国浩は感動して耳をすませた。

東京からほとんど逃げるようにここへ来て、生活をする中で町のあたたかな優しさをたくさん貰ったけれど、国浩は、自分は余所者であるという意識の引き締めをずっとしていた。そうしなければ、この場所に甘えて駄々を捏ねてしまうのが怖かった。けれど、国浩は今、その意識の解放を、許された気がした。列車の音ははやがて山間の方に消えていった。

島子に話しかける。

「東京へ行くならね、気をつけることがたくさんあるよ」

「あら、なんですの?危ないってこと?」島子の声はだいぶへたっていた。投げやりだった。

「いやー、そうじゃない。まず一つ、曇った昼は暗い顔をして地面をにらみながら歩くこと」

「どうして」笑った。国浩は、優しくしようと思った。

「どうしてって、東京の人はみんなそうしてるからですよ。早歩きも忘れずに。郷に入ては郷に従え、です。それから、ビルにひびく大声でバカ笑いをすること。なんにも面白くなくても、周りが笑ったら笑うんです。下品に。それから、一秒も無駄にしてはならないから、常に何かをしてなきゃいけない。ハウツー本でも、お化粧直しでも、単語帳でもいいから持って歩くんです。ぼーっとしてちゃ、非難されます」

「意地悪。」

島子はワンピースをひるがえして、後ろを向きながら歩いて息を整えた。それからあかんべをした。

そろそろひらけてくる様子で、直線に伸びる道のてっぺん、茂みのアーチに太陽の光が集中して眩い。あと、五百メートルといったところだ。ここで、国浩が島子を抜かした。島子はもう、かなりバテていた。頬は色鉛筆で塗ったように紅潮し、まぶたが落ちている。持久力の限界であった。水筒の水をゴクゴク飲んで、体の火照りを冷ますのに努めた。

国浩は歩調を緩めながら、ストップを待ったが、ついに一度も休まず登りきった。

見晴らしは隆起した崖の上だった。景色は三方、高い尾根が雄大に広がっていて、かくしてふもとの町は堅固に護られていた。平たい草地の上に、二人は腰を下ろして呼吸を直した。冷ややかなそよ風が、島子の髪をくすぐったく舞い上げて、後ろへ駆けていった。島子がわけもなく笑うと、国浩もつられて笑った。くたくたに疲れた。

体を落ち着かせると、国浩は幾重にも重なった山脈を、目に焼き付けるようにじっと眺望した。それから、ゆっくりと暮れにかたむいている静かな町を見下ろした。この山を含めて、四方、隙のない、平和な盆地。泣きたくなるほど、この土地は護られている。つらい時も、しあわせな時も、いつだって山が見守ってくれている。こんなに確かなことってあるだろうか、と国浩は悔しくなった。

鎮守の山々。島子の顔から、わざとそむけて言い捨てた。

「こんなにお山さんに守られているのに、ここを離れるなんて、お馬鹿さんです。東京は、誰も何も、守ってくれるものなんていません。全部、自分の責任にされる。一人で、戦わなくちゃいけない。悲しいときも嬉しいときも一人ぼっちです」

島子が、この町が、羨ましかった。ここへ来てから、国浩には、都会は全て悪いものとしか思えなかった。そして、島子が抱いている東京への幻想が、いつか壊される時がくると想像すると、持つべきではない感情が抑えきれなくなった。しかし、おどす心持ちは、本気の説得が半分、島子の明るい性格に砕けたいおもいが半分で、自分がどうしようもできないのを、本当はよく知っている。島子も、自身のことも。

明日、帰るのだった。東京には、こなさなくてはならない物事が、国浩をたくさん待っている。近すぎて見失っている、染みのような私生活に、また明日から戻る。

この場所で発見した、新しい気づきを、新鮮なまま持ち帰るために、今は甘えてはならないと、再び気持ちを引き締めた。島子は、国浩の顔を横目で見て、優しい忠告を頭のなかで反芻した。形のない不安はたえず襲ってくるけれど、絶対的な確信を持っている島子にとって、その言葉は甘くて美味しい、キャンディーのようだった。

「私、ここのこと絶対に忘れません。何か嫌なことがあったら、歩いて帰ってくればいいのよ。この国は、狭いようですから」

春の突風が、二人を掠めて天高く過ぎ去った。空にはもう雲はなくなって、青く、濃い。

故郷がある。どこへ行っても、それはずっと。島子には、荘厳な山々も、優しい人情も、尊ばしく考えられない。けれど故郷は全てここに在り、養われたしたたかな勇気は、心に宿り、一瞬でも忘れない。

国浩は島子を振り向いた。自分を守ってくれる場所があるという勇気に、彼女は守られているのだ。じっと自分の育った町を見つめる瞳には、東京と変わらない快晴の色が映っていた。

二人はしばらくそこに座って、東京にそれぞれの思いを馳せた。それからゆっくり下山して、煮えるような夕日を眺めながら宿まで帰った。

夕餉を食べたあと、国浩は日記帳に今日の出来事をしたためた。それからこう書いて締めた。

「あす、九時に発つ。僕は大事な心がけを今まで忘れていた。環境に殺されるとばかり考えていたが、それは違った。僕自身が生きる力を忘れて、環境ばかり気にしていたにすぎなかった。生きるとは、自分を見つめ続けることだと、今日は思った。」