青に透けた肉塊

君は変人に憧れている常識人だった。

小説「ホーム」

ホーム


右腕が突然じわりと熱さに痛んだ。見るとスーツの袖が湯気立ち黒く、ぼとぼと水滴を落としている。ツンと鼻を刺すにおいはコーヒーだった。阿佐子は立ち止まって後ろを振り向き、コーヒー缶を片手におもての褪めた青年が立ちすくんでいるのを認めた。そしてこのよく見知った青年と初めて会った時分を、刹那に思い出した。

火曜日と金曜日に、朝八時の快速電車で乗り合う青年は、いつも十両目四番ドアの隅に立っている。阿佐子は始発駅の次駅から利用していて、まだそれほど混雑しない車内で角を確保しているその端正なポーズを、座席に下りる時にいつも無意識に窺っていた。

格好は特べつ派手な男ではない。大学二回生ふうの意地悪いかげりは全く見られないが、しかし相応の年頃だろう。肩に背負うメッセンジャーも馴染む色合いだ。阿佐子が目を惹かれたのは、青年がひとりでニコニコ微笑んでいるふしぎからだった。

駅は数を通り混雑してくると、それはよく目立った。スマートフォンの画面をにらみ、空虚をにらみ、美貌や醜貌をにらみ、詰め寄る群衆は、うつろに眉をしかめて無表情のためだ。地下を走っても、まばゆい朝日に照らされても神経質の変わらない東京の通勤電車は、阿佐子が上京して未だ受け入れられない事象である。

青年は、何をするでもなく、ただ遠くを見つめてニコニコしているのだった。心地よい違和感が印象的で、阿佐子はまぶたを伏せたくなったときに、彼をそっと横目に見つめる癖ができた。

「すみません」

ふわりと右腕を持ち上げられた。青年は周章に震えた手つきでコーヒーで濡れた腕にポケットティッシュを押し付ける。到着時に吐き出されたはずみであやまってしまったようだった。

人々が迷惑そうに二人を迂回して通り過ぎる。

「平気です」

阿佐子はスーツを脱いでていねいに折りたたんでしまった。手のひら程度はかけられたのに、なぜかちっとも不愉快にならなかった。

安心させようと思ってやったことだが、青年の顔はますます不穏を帯びる。

「でも

異なる感情をふくむ二人の視線が交錯する。面と向かって見ると、青年はずいぶんみずみずしい瞳を有っていた。

しかしそれだけで恋に落ちるほど現代人ばなれした乙女心もなく、それよりもずっと気になっていた他人に近づけた興味が興奮となって口吻に表れる。

「日差しが強くなってきたわね、これからきっと暑くなるのだから、ちょうどいいんですよ」

覇気のある優しい声に、青年はいささか不安の取れた笑顔で言い返した。

「きょうは夏日になるかもとニウスでやってました

「そうですか、あたしはお寝坊だから朝のテレビは見なくて。あなたは学生さんですか?」

「え」

「やっぱり」

言ってからすぐに後悔が心臓を絞ったが、対手はべつだん気にするふうでもなく、「でも、短大ですがね」となぜか照れた様子で付け加えた。

赤の他人で初対面の異性に、こんなに仲睦まじくに話ができるのはどちらの人柄の良さの所以だろう。二人は少しの間世界にビロードをかけて、散文的会話を交わした。

やはり青年の笑顔は素敵だった。けれど混雑した電車の中で一方的に見つめていたあのニコニコ顔とはどこか違うように阿佐子は感じた。

「あの、いつも火曜日と金曜日のこの時間に乗ってますよね」

会社に出勤する時間がゆっくりと迫っている意識が、思い切って尋ねた。青年は今度は素直な驚きを表情にたたえるが、少しも訝しむ影はない。

阿佐子は気持ちが楽になった。

「え。一限があるので、それにゆとりをもって間に合うように出ています」

「あたしは平日に会社に通ってますけど、十両目で実はよく見かけててとても印象深いので……

「そうでしたか。僕が印象深い?なにか変な動きしてましたらすみません」

「いえ、そうじゃなくて。ほら、何にもしていないのに、ずっと微笑んでいらっしゃるから」

阿佐子が何気なくそう言うと、青年は、ひそかに進めていたサプライズパーティーの準備を当人に目撃された場合のような、ショックが走った目を張り、僅かに無言になった。

気づくことさえできない青年への薄い警戒心が、阿佐子の胸下をひやりと湿らせる。なにか不味いこと言ってしまったかしら。

「それは

呟いた声は際限ない宇宙への落し物に似ていた。

「小さい時から、電車の中のほとんどの大人が、ムスッとして苦しげにいるのがなんだが、とても悲しくて。せめて僕だけでも、笑っていようという、くだらない心構えでして。上手く言えないのですが」

阿佐子は恥ずかしげに述べつらねる優しい声色の言葉の最後までを聞かずに、目尻に喜色を浮かべて青年のやわらかな手をパッと取った。

無線放送が特急列車通過の注意を穏やかに促す。間もなくして突風が阿佐子の短い髪を叩いた。

「それとても、素敵です。とても良いおつもりだわ。そんな恥ずかしそうに言うわけではないですよ」

真剣な眼差しで訴えた。全く阿佐子には日本人離れした曇りのない気っ風がある。この性格のおかげで苦労ほとほと、けれども賢く優しい友人に恵まれている人生を送ってきた女だった。

青年は目をチカチカさせて、言葉に逡巡したが、なにかを伝えようと顎を下ろした。

だが阿佐子がチラとホームの時計に視線を流してしまったのが先だった。

「あら、もう九時になるわ。こんなに引き止めてごめんなさい、じゃあまた機会がありましたらよろしくね」

二度軽いお辞儀をしてから、かえって失礼なくらい足早に去った。実のところ、自分のあせりよりも相手を長く引き止めてしまった申し訳なさがこみ上げてきたのだ。

思い返せば十分ほどの邂逅とはいえ、少し出過ぎた真似をした。次の火曜日からあたしを畏れて来なくなってしまったら、どうしよう。

唇の皮を前歯で遊びながら、阿佐子は改札を出てからも悩んだ。とても悪いことをしてしまった。荷物を持つ腕が、脱いだスーツの分、少し重い。

暫くして阿佐子と同じ道筋を歩いていく青年が、頬を赤くしてぼたぼたと涙をこぼしているのだった。