青に透けた肉塊

君は変人に憧れている常識人だった。

独り言。(ペンネーム変えました)

「恥を認める」。これをできる人は、なかなかいない。1000人中1人くらいではないかと私は予想している。私が今まで出会ってきた人、せいぜい80人くらいで、そのうちそれを、自然に、性格の根底からできていた人は、たった一人であった。つまり、80人中1人の確率で有ることは、最低限まちがいではない。いや、私は算数が特に苦手だからどうだろう、あ、いやはや、これはまた、即座に言い訳を、あ、いやいや。

恥を認める。私は群を抜いて、これが全くできない。生きていること自体がもう恥のような毎日であるのに、他人が非難しても、知り合いがたしなめても、身近な優しい人が、大丈夫?って一言、ヒントを出しても、鋭利に研がれたプライドの剣で私はそれを刺し殺す。それどころか、メタメタにして、跡形もなくぶっ壊す。そして何事もなかったように元通りに腰を落ち着ける。

なかなか、できないものである。柔能く剛を制す、これに尽きるというのは、真理である。この柔らかという字は、恥を認めることにおいて、ふざけて茶化すという意味ではなく、素直に受けとめて、相手に謝る、非を事実だと理解して、なにも恥を恥と思えというわけでなく、また恥する対象にむやみに謝ったりするというわけでもなく、次の自分の踏み台にする意志を表明する。恥辱や情けなさを盾にしないで、自分の身に受け止める、その、柔らかさだと思う。

指をさされたら、うん、ごめん、あの時は。(即座に結論だけを伝える。)僕もまだ、若かった。(認めるだけで言い訳しない。そしてむやみに謝らない。心底から申し訳ないと思う相手にだけ謝る。)あの時のことを、僕は何度も考えて、もう二度としないために、そしてもっとより良く生きるために、こういう目標を持って今を生きているんだ。(転換をする。)眼差しも背筋も、真剣である。声のトーンは、低めである。これだけで、多くの人は許すだろう。語弊を招くような意味合いではなく、これだけ、これだけできることが、恥を認めるという姿勢なのだ。もちろん体裁だけではなく、本気でそう考えていなけりゃただの嘘になるけど、行為はたったこれだけである。

なぜ我々は、こんな簡単なことができないのか。できないばかりか、プライドの防御にハリボテを作り、余計に非難を浴びてしまうのが常である。

美徳なのか、恥という事実が一切ない状況が。他人事ではないけれど、それは無茶だ。恥のない人生なんて、なんの学びもない。私は恥にだけは人一倍詳しいから、断言できるけれども、あいにく学びにするには認めなければならないので、白ける。


何か恥のことを全く見当違いな心で見ていないか。ほんとうは、自分の答えはわかっているけれど、今の私にはまだ、この遠吠えが精一杯の誠意である。